INFORMATION

愛で生きるって、何だと思う?

「ヨフィさんの中での愛ってなんですか?講義として聞いてみたいです!」

こんな質問を以前いただきました。

さて、皆さん「愛」って、何だと思いますか?

広大なお花畑から、泥の中へ

私、スピリチュアルを始めて、チャネリングをすると、いつも「愛」っていうエネルギーに接続する感覚だったんですね。

なので、チャネリング内容を伝える時って、

「こんな感じの愛の雰囲気で〜」とか、

「こんな光を感じる愛が〜」

っていう、非常に抽象的な、特に高い次元を感じるほどに抽象的になっていった。

次第にそれは

「何も伝わらず、愛しか言わない脳みそお花畑な回答になっているのではないか」

という一抹の不安になりました。

そのため、それを感じるようになってからは、

「いかにその人の現実に即した、現在の悩みの解決につながるアプローチができるか」

という視点で関わらせていただいていました。

なので、一時期、

「愛」って使うの禁止っていう縛りを自分に設けていました(笑)

元々は「私の居場所なんてない」陰キャ

じゃあ元々愛に満ち溢れていたのに、急にそんな気持ちになったのかというと、断じてそうではない。

もともと謎につきまとい、いじめがきっかけで大爆発した

「私の居場所はどこにもない」

という考えがデフォルトな愛ってナニソレオイシイノ?という日々。

そんな陰極まった生活の中、あるショッキングなことをきっかけに起きた

覚醒体験のような、臨死体験のような不思議な出来事から、

私の第二の人生が始まり、スピリチュアルの世界にいざなわれたのは21歳。

だから、この「どこにも居場所がない私」と、

すべてを受け入れ包まれている神々しい体感の世界とを

行き来した私は、

「暗闇の自分に光を当てる」かのように、

本来私達は愛という存在だったということを伝えるのが

わたしの今生の使命だろうと邁進した20代。

自分すら救えない壁

例えるならば、

👻「ワタシノイバショナンテナイ」陰キャ時代は、失敗した今の自分とは全く違う過去の遠い自分

👼ヨフィとしてスピリチュアルな活動をしている自分が本来の神がかってる本来の自分

今言うならばこんな表現ですね、

本気でそんなふうに思っていました。

しかし、

独立し、結婚し、ようやく自分の事業も軌道に乗ってきて、

これからというタイミングにやってきたあれ、コロナです。

コロナがやってきたというタイミングで、

私のいわゆる「栄光」の生活は崩壊したのです。

ありとあらゆる今まで経験したことのない不運が襲ってきたのです。

「ハイヤーセルフとつながってるのになんでこんな闇のようなことが起きてるの?」

「ヒーリングしてるのに一向に状態が解決しない」

「ありとあらゆるスピリチュアルなものを用いても何もかもうまくいかない」

そんなふうな自分に、

もしもその時、「インナーチャイルドに愛を送りなよ!」とか、

「天使に助けを求めればサポートしてくれるよ」とか、

「自分の中にある愛を思い出して」とか、

言われていたら、心のなかで鼻で笑っていたでしょう。

本当に何をやってもうまくいかず、

その当時、私は今までやってきたことすべてを否定せざるを得ませんでした。

砂上の楼閣

その当時、その不運を乗り切る術として、

私の状況としては、一つ、当時お世話になっていた起業塾が掲げていた

「経営者たるもの、売上を上げるを第一目標にする」にフルコミットしたのです。

感覚派のわたしにとって、それは今まで絶対にやったことのない選択でした。

当時その起業塾の環境に恵まれていた私は、最悪な状況の中、

学んだことを実践し、まるでうまくいかない現状への恨みつらみを燃料として、

どんなに過酷な状況でも勉強し実践してきました。

売上上がらない→はいやめましょう。それ、仕事じゃなく、趣味ですよね?

と、自分に鞭打ち、自分自身の「ビジネス」を構築しようとしました。

学んで学んで、苦手なことも全てやって、

ある時、急に環境が変わり、私は「売上を追い求めなくていい生活」になったのです。

一見ハッピーエンドなんです。

目標にしていた「売上を考えなくてもいい生活」。

しかし、それが手に入ったからこそ見える現実があったのです。

それは

「本当に欲しいものは何も手に入らない」

「それはお金では買えない」

という現実でした。

怨霊寝たきり重課金ゲーム廃人が愛で生きるまでの蘇生術

特に隠しはしていませんでしたが、

わたしは当時自分のうまくいかない現実への恨みつらみに対する気を少しでも紛らわせたくて、

スマホゲームに多くの時間を費やしてました。

通常のセッションではちゃんと働くし、リーディングでの言葉もお伝えしていましたが、

それが終わるや否や、

再び襲いかかってくる悪感情をかき消したいという思いを、

「ゲーム市場の市場調査だから」という大義名分を掲げ、

一日5〜6時間はゲームか、ネットフリックス漬けになり、とにかく没頭できるものを探し、

結果、ゲームにはひどいときでは10万を超える課金をしないと満足できない、

それぐらい没頭しないと、

悪感情の亡霊が常に自分を乗っ取ってしまいそうだという気持ちになっていました。

そして、それを認めたくない。

私は「スピリチュアルという世界を伝える人」なのに、

それに嫌気が差しているなんてーー!

 

そんな状況に一つ、変化の兆しがやってきたのは、

子供が生まれたことです。

 

「子供が生まれたこと」

それは、かつて私が一番避けてきた人生です。

そんな人生に突入した私は、

全く想像しない生活になりました。

 

「自分の居場所なんてない」と思ってかつて生きていた私は、

子供を持って、愛情を注げる人になれるのか、とても怖かったのです。

更に、自分がそんな生活に適応できるのか、全く想像もつきませんでした。

そして、

「子供が生まれた」

ことでこんなにも人生が変わるということを、初めて身を持って体験したのです。

子供のエネルギーと混ざり合う世界

妊娠出産育児。

この一連の流れは、私の血液を総入れ替えしたかのようでした。

それは、人生の総入れ替えと言っても大げさではありませんでした。

不思議な感覚でした。

まるで自分が自分でないような、

子供が感じている世界と、私の世界は溶けている。

そんなときに、

子供がここに存在している。

それだけで、

私は喜びそのものだという感覚。

その感覚は、

かつて、私がハイヤーセルフから受け取った、

「ハイヤーセルフから見て私は、例えるならば飼っているハムスターを愛おしむ感じ」

というものが、更に奥行きを持って、

もう一度その亜空間に重なって伝わってくるのです。

そして私はわかったのです。

「私はいつも愛されていて、愛そのものであった」と。

 

あれだけ アイアイ言うのはお花畑 と心のなかで豪語していた私は、

愛に戻ってきました。

すべての粒子という存在が愛

愛はいつもここに在る。

例えば、今私が打ち込んでいるパソコンという物体。

ご飯が食べられる。

安寧に過ごせる家や空間。

動く手足。

言葉を交わす人。

愛、そしてI。私という存在。

 

これらは全て粒であり、集積されていて、

物理となしている。

 

それはやはり広義でいくと「全ては愛」

 

しかし、逆に愛を感じられないというのはどこから来るのか。

愛に近づき、愛から遠のく

そんなことに気づき始めて、

「愛ってなんだろう」と真剣に今一度考え始めたのが一昨年頃。

そんな中で、私が出会った一つの金言

「愛から遠のいていた」

という言葉です。

 

いままで使ったことがあるようで思いつきもしなかった発想でした。

 

愛は、変わらず在る。

存在している。

 

そして今の自分の、

言葉は、行動は、意識は、

愛に遠いだろうか?近いだろうか?

 

そんな問いを持つようになってから、

私の中での行動や捉え方が変わってきたように感じます。

 

そしてそれは、

「これは愛だ!」と

ニセモノの自信で「これが愛」という固定が生まれた時点で遠くなったり、

何も考えていないさりげないものが「愛に近かったのかもしれない」と感じたり、

 

しかしながら、

「愛はこれだ」と、決めた時点で、そこからすでに違うものになっているような気もするのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関連記事一覧